百人一首の風景               77    78
百人一首の風景 瀬を早み 恋歌
77崇徳院 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思う

阪本桃水(純子)書
歌意
川瀬の流れが速いので、岩に堰き止められる急流が2つに分かれても、後には再び出会うように、あなたと今は別れても、いつかはきっといっしょになろうと思うことだ。

歌の背景
激しく流れる川の水が、岩にあたって、二つに分かれても、下流ではまた一つになる。その様子を、離れ離れになった恋人と、いつかいっしょになりたいという気持ちに重ねた歌である。
作者プロフィール
.崇徳院
1119年~1164年
5歳で即位し、22歳で近衛天皇に位を譲る。後白河天皇と対立して争いを起こすが、負けて讃岐へ流刑となる。

歌碑(二尊院門前長神の杜)

歌碑説明碑

歌碑(小倉百人一首文化財団建立)

崇徳天皇(すとくてんのう)
崇徳天皇(元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。

略歴
幼き帝
元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。保安4年(1123年)正月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)
実権無き上皇
崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開した。法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。
久寿2年(1155年)7月23日、病弱だった近衛天皇が17歳で崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれた。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。
保元の乱
保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。『古事談』によれば、法皇は側近の葉室惟方に自身の遺体を崇徳院に見せないよう言い残したという。崇徳院は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。法皇が崩御して程なく事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。
讃岐配流
7月13日、逃亡していた崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳院は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。23日、崇徳院は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国へ下った。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる。

Wikipediaより引用

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