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百人一首の風景 あはれとも 恋歌
45謙徳公 あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

阪本桃水(純子)書
歌意
私のことを「あわれだ」と言ってくれそうな人は、あなたをおいては誰も思い浮かんでこないので、私はあなたに恋いこがれながら死んでしまいそうですよ。

歌の背景
女性から振られた男性の失恋のなげきを詠んだ歌。一度は愛し合った女性がだんだん冷たくなって、会ってくれなくなり、そこで、心変わりをされてしまった自分のみじめさと、恋いこがれて死ぬほどだという思いを込めてこの歌を詠んだ。
作者プロフィール
.謙徳公(けんとくこう)
924年~972年
本名は、藤原伊尹(これただ)。右大臣師輔の子で、娘の懐子が花山天皇の母となったので、力をつけ摂政太政大臣になった。


歌碑(嵐山亀山公園)

歌碑案内文

歌碑(小倉百人一首文化財団建立)

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)
藤原 伊尹(924年~972年)は、平安時代中期の公卿。右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた。しかし、その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の兼家の家系に移る。
父の師輔は右大臣として村上天皇の天暦の治を主導した実力者だった。妹の中宮安子が村上天皇の後宮に入り、東宮憲平親王、為平親王、守平親王といった有力な皇子を生んでいる。
経歴
天慶4年(941年)従五位下に叙される。 村上天皇の時代の天暦・天徳年間に蔵人に補任され、美濃介・伊予守など地方官を兼任した。ところが天徳4年(960年)に父が急死する。この時伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将で、弟の兼通・兼家もそれぞれ従四位下中宮権大夫、正五位下少納言に過ぎず、九条流は衰退の危機を迎えた。しかし憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目では参議に進み、康保4年(967年)には従三位、続いて上臈4名を飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功、村上天皇との関係を強化した。
同年、村上天皇が崩じて安子所生の憲平親王が即位(冷泉天皇)。伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。その一方で伊尹は天皇の外伯父として権大納言に任じられ、翌安和元年(968年)正三位に昇る。伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている。
人物
性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたことがある。父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹はこの点は守らなかった
和歌に優れ、天暦5年(951年)梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰和歌集』の編纂に深く関与した。『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首が入首。家集『一条摂政御集』(『豊蔭集』)がある。書家として名高い藤原行成は孫であり、そこから世尊寺家を輩出した。

Wikipediaより引用

写真撮影

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