百人一首の風景                65    66
百人一首の風景 恨みわび 恋歌 後拾遺集 
65相模 恨みわび 乾さぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

阪本桃水(純子)書
歌意
人のつれなさを恨み、我が身のつらさを悲しんでこぼす涙で、乾く暇もなく朽ちてしまう袖さえあるのに、その上、この恋の浮名が立って朽ちてしまうであろうわが名が惜しいことだ。

歌の背景
「うらみわび」は、相手の思いやりのなさをうらみ、冷たくされた自分を嘆く気持ちを表している。失恋した女性の歌といえる。
今では、泣くときには、ハンカチで涙を拭くが、昔は着物のそでで拭いたのであろう。
作者プロフィール
相模(さがみ)
998年~1068年
源頼光の養子。相模守の大江公資(きんより)の妻となり、相模とよばれる。離婚後、修子内親王に仕え、歌人として活躍。.
相模(さがみ)
相模(998年頃 ~1061年以降か)は、平安時代後期の歌人である。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。実父は不詳で、摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保章の娘。
初名は乙侍従(おとじじゅう)。十代の頃、橘則長の妻となるが離別、1020年(寛仁4年)以前に大江公資の妻となり、「相模」の女房名で呼ばれるようになる。夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、1025年(万寿2年)頃離別した。この頃、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られている。やがて一条天皇の第1皇女(入道一品宮)脩子内親王に出仕。1049年(永承4年)内親王薨去後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕えた。この間、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺える。『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る他、以降の勅撰集、家集等に多数作品を残している。
Wikipediaより引用

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