百人一首の風景               75    76
百人一首の風景 契りおきし 京都 奈良興福寺 息子 親バカ 千載集
75藤原基俊 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

阪本桃水(純子)書
歌意
あなたが約束してくれた、させも草においためぐみの露のような情け深いお言葉を、命のようにあてにしていたのに、むなしく今年の秋も過ぎて行ってしまうようです。

息子(光覚)を気にかける基俊
藤原基俊の息子光覚は、奈良興福寺の僧侶で、興福寺で秋に行われる「維摩講」で名誉ある講師になかなかなれず、藤原忠通に息子のことを頼んだところ、「まかせておけ」ということであったが、その年も光覚は講師に選ばれなかった。
基俊はがっかりして、維摩講の季節が過ぎて行くことを嘆いて歌を詠んだのがこの一首である。
作者プロフィール
.藤原基俊
1060年~1142年
藤原道長のひ孫で、右大臣俊家の子。名門の出だが出世はできなかった。歌や漢文が得意で、後に出家する。

歌碑

歌碑(嵐山東公園)

藤原基俊(ふじわら の もととし)
藤原基俊(1060年~142年2月13日)は、平安時代後期の公家・歌人。父は右大臣藤原俊家。
藤原氏の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫にあるが、官位には恵まれず従五位上左衛門佐にとどまった。1138年(保延4年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。
歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者もつとめ、源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍した。革新的な作風であった俊頼に対し、基俊の作風は古い歌風を重んじたものであったという。晩年には藤原俊成を弟子に迎えた。漢詩文にも通じ「新撰朗詠集」を撰集している。
「金葉和歌集」以下の勅撰和歌集に百余首入集。家集に「基俊集」がある。
書家
書家としても名があり、現存する書跡には次のものがある。
和漢朗詠集の写本の断簡。現在70葉ほどが残る。下巻末にあたる部分の断簡(陽明文庫蔵)に、本文と同筆で「永久四年(1116年)孟冬二日、扶老眼点了、愚叟基俊」と二行の奥書きがあり、さらに別筆で「おなじとし月によみはてつ」と記されている。このように年代と筆者が明記された書跡は、現存するおびただしい平安時代の遺品の中でも稀である。


興福寺(こうふくじ)
興福寺は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
創建
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
写真撮影

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