百人一首の風景              95    96
百人一首の風景 おほけなく 比叡山 世の中 千載集
95前大僧正慈円 おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつそまに すみ染めの袖

阪本桃水(純子)書
歌意
我が身には過ぎた願いであるが、つらいことの多いこの世の人々におおいかけることだ。比叡山に住みはじめてから着ているこの法衣の袖を。
法の力によって、天下万民を救おうという抱負と重責をうたっている。


歌の背景
この歌は、仏教の力で世の中を救いたいという、作者の僧としての思いを歌にしたものである。
「おほけなく」は身のほど知らず、といった意味。「うき世」はつらい世の中ということである。
作者プロフィール
.前大僧正慈円
1155年~1225年
藤原忠通の子。13歳で出家し、37歳で天台宗の最高位の僧となる。歴史書「愚菅抄」の作者。

歌碑

歌碑(嵐山東公園)

慈円(じえん)
慈円(1155年5月17日~1225年10月28日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしなが そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。

父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光加賀局、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。
略歴
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年天台座主明雲について受戒。建久2年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。
天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている

Wikipediaより引用

百人一首と千載和歌集 嵐山東公園 小倉百人一首文化財団歌碑建立
千載和歌集とは
『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)とは、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称『千載集』(せんざいしゅう)。

撰者は藤原俊成の一人、ただしその息子の藤原定家も編纂の助手を務めたという。『拾芥抄』によれば1183年2月、 後白河院より俊成に撰集の院宣が伝達された。そののち1188年4月22日、『千載和歌集』は完成し後白河院の奏覧に供された。
しかし平親宗の日記『親宗卿記』によれば、俊成はこの十年ほど前に「院宣」を蒙り、以後勅撰集の編纂を続けていたと記されている。俊成は『山家集』や『経盛集』等によれば、『千載和歌集』撰進のかなり以前から私撰和歌集を編纂していたことが知られ、この私撰集は『三五代集』と名づけられていた。「三五」とは「三五十五」、すなわち十五代にわたる天皇の代に詠まれた和歌を採った集という意味で、これを基にして『千載和歌集』が編纂されたという。序文の「仮名序」には撰進の日付が文治3年の9月20日と記されており、実際の奏覧がこの翌年であるにもかかわらず敢えてこの日付を記したのは、後白河院の意向に沿ったものだといわれている。さらに奏覧ののち、撰者(俊成)の歌が少ないとの後白河院の指摘により、俊成の歌を加える改訂が俊成自身の手によって行われた。

百人一首は千載和歌集より14首選ばれている。

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