百人一首の風景                64    65
百人一首の風景 京都府宇治市 宇治の川霧 冬 千載集
64権中納言定頼 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらわれわたる 瀬々の網代木

阪本桃水(純子)書
歌意
夜がしらじらとあけるころ、宇治川にたちこめていた川霧が、とぎれとぎれとなって、その絶え間から、しだいに遠くまで点々と現れはじめた川瀬川瀬のあちこちに立つ網代木よ。

宇治川
作者プロフィール
権中納言定頼
本名藤原定頼(ふじわらさだより 995年〜1045年)は平安時代中期の公家・歌人。父は藤原公任、母は昭平親王(村上天皇の皇子)の娘。正二位権中納言に至り、四条中納言と称される。中古三十六歌仙の一人。

歌碑

歌碑
ゆかりの地
都のたつみ、うぢ山
都(平安京)の東南、山城国宇治郡、今の京都府宇治市。山々の間を水量豊かな宇治川が流れる風光明媚な地で、貴族の別荘地として栄えたところ。平等院鳳凰堂は、藤原頼通が父道長の別荘跡にこの世の極楽浄土を現出しようとの意図で建立したと言われています。

宇治川
藤原 定頼(ふじわら の さだより)は平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任の長男。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。
生涯
1007年、元服・従五位下。侍従・右近衛少将・右中弁などを経て、1017年正四位下・蔵人頭に叙任。1020年参議・右大弁として公卿に列す。1022年従三位、1029年権中納言、1042年正二位。1044年病のため出家。

少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。
1032年の『上東門院彰子菊合』、1035年の『関白左大臣頼通歌合』などに出詠。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に『定頼集』がある。

百人一首と千載和歌集 14首 歌碑建立(小倉百人一首文化財団) 嵐山東公園千載集ゾーン
千載和歌集(せんざいわかしゅう)
千載和歌集とは、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称『千載集』(せんざいしゅう)。
撰者は藤原俊成の一人、ただしその息子の藤原定家も編纂の助手を務めたという。『拾芥抄』によれば1183年2月、 後白河院より俊成に撰集の院宣が伝達された。そののち1188年4月22日、『千載和歌集』は完成し後白河院の奏覧に供された。

百人一首と千載和歌集 14首
64.権中納言定頼    朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらわれわたる 瀬々の網代木
67.周防内侍       春の夜の 夢ばかりなる たまくらに かひなく 立たむ 名こそをしけれ
74.源俊頼朝臣      憂かりける 人をはつせの 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
75.藤原基俊       契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
80.待賢門院堀河    長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
81.後徳大寺左大臣   ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる
82.道因法師       思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり
83.皇太后宮大夫俊成 世の中よ 道こそなけれ 思い入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
85.俊恵法師       夜もすがら 物思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
86.西行法師       嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
88.皇嘉門院別当    難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
90.殷富門院大輔    見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかわらず
92.二条院讃岐      わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らぬ 乾く間もなし
95.前大僧正慈円    おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつそまに すみ染めの袖
2015年7月29日写真撮影

所在地 京都府宇治市
交 通 最寄駅 
     
     

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