百人一首の風景               11    12
百人一首の風景 参議篁(小野篁) 島根県隠岐1 古今集
11参議篁(小野篁) わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟

阪本桃水(純子)書
歌意
広い海原を、多くの島々を目指して、舟をこぎ出して行ったと、都にいる妻に告げてくれ。漁師の釣舟よ。
遣唐使として乗船に関して事に従わなかったので、隠岐に流された。難波から出ようとして詠んだ歌である。

歌の背景
参議篁は、遣唐副使として2度中国の唐に向かうが、船は難破して、日本に戻ってくる。多くの死者が出たにもかかわらず、3度目の渡航が命じられる。
篁は病気のふりをして船に乗らず、さらに遣唐使を皮肉った漢詩を作った。そのために隠岐へ流刑となった篁は、出発の時にこの歌を詠んだ。

作者プロフィール
参議篁
802年~852年
本名は小野篁。平安時代の学者。
遣唐使副使を命じられるが、藤原常嗣と争い、隠岐に流刑になる。数年後都にもどった。


歌碑(嵐山亀山公園)

歌碑説明文

歌碑小倉百人一首文化財団建立
小野 篁(おの の たかむら)
小野 篁802年~853年2月3日)は、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。

経歴
弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した。
天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという
承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され、刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善愷訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去。享年51。最終官位は参議左大弁従三位。
Wikepediaより引用

古今和歌集(こきんわかしゅう)
古今和歌集とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂されたもの。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。

成立
『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。
撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。

 5.猿丸大夫奥山に もみぢふみわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
 7.安倍仲麻呂天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
 8.喜撰法師わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり
 9.小野小町花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に
11.参議篁(小野篁)わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟
12.僧正遍昭天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
14.河原左大臣みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに
15.光孝天皇きみがため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
16.中納言行平在原行平立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
17.在原業平朝臣ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
18.藤原敏行朝臣住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通い路 人目よくらむ
21.素性法師今来むと いひしばかりに 長月の 有り明の月を 待ち出でつるかな
22.文屋康秀ふくからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
23.大江千里月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
24.菅家このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
28.源宗干朝臣山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
29.凡河内躬恒心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
30.壬生忠岑有り明けの つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
31.坂上是則朝ぼらけ 有り明けの月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
32.春道列樹山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり
33.紀 友則ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
34.藤原興風誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
35.紀貫之人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
36.清原深養父夏の夜は まだよひながら 明けぬるを 雲のいずこに 月やどるらむ
写真撮影

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