第7代孝霊天皇
 孝霊天皇(こうれいてんのう)は、「古事記」「日本書紀」に記される第7代天皇(紀元前290年2月19日~紀元前215年3月27日)。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)大倭根子日子賦斗運命(「古事記」)
 父は孝安天皇、母は天足彦国押人命(あまてらしひこくにおしひとのみこと)の女・押媛(おしひめ、「古事記」に忍鹿比売)。
 皇后は細媛命(ほそひめのみこと)。第一皇子は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)、孝元天皇である。
 第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)、通称吉備津彦命は桃太郎伝説のモデルと言われている。
 また、皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)は卑弥呼の墓とされる箸墓古墳の被葬者である。
陵墓:王寺町本町三丁目 

①第7代孝霊天皇(こうれいてんのう):大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこ
 ふとにのみこと・大倭根子日子賦斗運命(「古事記」)。
皇后細媛命(くわしひめのみこと、ほそひめのみこと。磯城県主大目の女) 
③第一皇子:大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇
:春日之千千速真若比売(かすがのちちはやまわかひめ、春日千乳早山香媛)
 ・皇女千千速比売命(ちちはやひめのみこと。『古事記』のみ)
⑤妃:倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉、意富夜麻登玖邇阿礼比売命。
    和知都美命の女)
 ・皇女:倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももそひめのみこと) 箸墓古墳に葬られた
      という。邪馬台国を治めたとされる卑弥呼に比定する説もある。
 ・皇子:日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと。『古事記』のみ)
 ・皇子:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命
 ・皇女:倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと、倭飛羽矢若屋比売)
⑥妃:絙某弟(はえいろど、絙某姉の妹)
 ・皇子:彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
 ・皇子:稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。

※第三皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)が伝説上の桃太郎のモデルであるといわれている。

BC711-585   (1) 神武天皇
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BC632-549   (2) 綏靖天皇
            |
BC577-511   (3) 安寧天皇
            |
BC553-477   (4) 懿徳天皇
            |
BC506-393   (5) 孝昭天皇
            |
BC427-291   (6) 孝安天皇
            |
BC342-215   (7) 孝霊天皇
            |   
BC273-158   (8) 孝元天皇
            |
BC208- 98   (9) 開化天皇
            |
BC148- 30   (10) 崇神天皇
            |
BC 69-AD 70  (11) 垂仁天皇
            |
BC13-AD130  (12) 景行天皇
            |
AD 84-AD190  (13) 成務天皇

孝霊天皇黒田廬戸宮跡

黒田廬戸宮跡

桃太郎生誕地
桃太郎伝説
第7代孝霊天皇の第三皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅(うら)伝説に由来するものとする説がある。これは、古代の大和政権吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。 この説をもとに、桃太郎のモデルとなった人物が彦五十狭芹彦命であるとする見方が広く知られている。 これにちなんで、彦五十狭芹彦命の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。田原本町初瀬川 には、川上から男の子が甕に乗って流れてきて、西の方角に向かい神様となったという伝承が残る(本朝神社考)。西の方とは、『古事記』や『日本書紀』の孝霊天皇彦五十狭芹彦命の記述から、吉備(岡山)や讃岐(香川)をさすと考えられている。

発生年代は正確には分かっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。

桃太郎生誕地:奈良県田原本町黒田廬戸宮跡

桃太郎生誕地碑

黒田廬戸宮

法楽寺

法楽寺
桃太郎鬼退治の地:岡山県岡山市吉備津彦神社、総社市鬼ノ城

吉備津彦神社

桃太郎と家来

鬼ノ城

鬼ノ城
桃太郎伝説岡山吉備路編
 桃太郎は岡山のシンボルとして全国的に定着している。昔話「桃太郎」のルーツとなる伝説「温羅(うら)伝説」の発祥も吉備路にある。
 温羅と呼ばれる悪者が鬼ノ城(きのじょう)を住みかにして悪事の数々をはたらいていた。村人は温羅に大いに恐れおののいて、大和朝廷に直訴。大和朝廷は吉備津彦命を遣わし、退治することになった。
 さて、吉備の中山に陣をしいた吉備津彦命。温羅の立てこもる鬼ノ城めがけて矢を射るものの、矢は温羅の投げた巨岩と空中で衝突して共に落ちてしまう。そこで吉備津彦命は一計を案じ、弓に一度に二本の矢をつがえて放った。吉備津彦命の狙い通り、一本は見事に温羅に命中した。鬼ノ城から流れる川は温羅の血を吸い、一面の浜を赤く染めたという。温羅は雉に姿を変えて山中に隠れた。しかし、機敏な吉備津彦命は鷹となって追跡。とうとう温羅は、鯉に姿を変えて海に逃れようとした。それを知った吉備津彦命は鵜に化けて、この鯉をとらえ退治したのである。
 吉備路には、吉備津彦命が射る前の矢を置いた「矢置岩」や、矢と岩がぶつかって落ちた「矢喰宮」、吉備津彦命が鯉に化けた温羅をつかまえた場所とされる「鯉喰神社」、温羅が使用したといわれる「鬼の釜」、血吸川、赤浜と、温羅にまつわる地名や旧跡が数多く残っている。(吉備路パンフレットより引用)

吉備津神社

御釜殿

御釜殿再建400年奉祝まつり

廻廊
 吉備の中山の西麓に鎮座する吉備津神社は、吉備国(現在の岡山県と広島県東部)の総鎮守、備中国(岡山県西部)の一宮として尊崇を受けている。ご祭神は、「日本書紀」に記載される孝霊天皇の皇子で四道将軍として西道(山陽道)に派遣され、吉備国を平定した大吉備津彦命を主神として、一族の神を合祀している。
第7代孝霊天皇:桃太郎伝説