百人一首の風景               1    2
百人一首の風景 奈良県・滋賀県 秋の田 近江神宮 後撰集
1天智天皇 秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わが衣手は つゆにぬれつつ

阪本桃水(純子)書
歌意
秋の稲田のほとりの仮小屋で番をしていると、その屋根をふいたとまの編み目があらいので、私の袖は夜霧にしきりにぬれることだ。
収穫前の秋の田んぼでは、鳥や動物にあらされないように、一晩中見張りをした。

稲穂
作者プロフィール
天智天皇
626年~671年
舒明天皇の子で、即位前の名前は中大兄皇子。中臣鎌足とともに蘇我氏をほろぼし、第38代天皇に即位。
若いころから行動的な人で、学問にも優れていた。645年には政治の仕組みを天皇中心にした「大化の改新」を行った。唐の法律にならい、国の制度を整えた。都を一時、飛鳥(奈良県)から近江(滋賀県)に移した。

近江神宮

歌碑 近江神宮社務所前

歌碑 百人一首

近江神宮拝殿

歌碑(野宮広場)

歌碑説明碑

歌碑(小倉百人一首文化財団建立)

天智天皇
天智天皇(626年)~672年1月7日))は第38代天皇、一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ )として知られている。舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
645年7月10日、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟(孝徳天皇)を即位させ、自分は皇太子となり中心人物として大化の改新を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、661年8月24日、斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、663年8月28日に白村江の戦いで大敗を喫した後、同667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日、漸く即位した。668年4月10日には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月2日に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、671年11月23日に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。


近江神宮
第38代天智天皇をまつる近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮(大津京)跡に鎮座する神社である。滋賀県西部、琵琶湖西岸の山裾に位置しており、旧官幣大社・勅祭社である。社殿は近江造り・昭和造りといわれ、昭和の神社建築の代表として登録文化財となっている。開運・みちびきの神、産業文化学問の神として崇敬が深く、また漏刻(水時計)・百人一首かるた・流鏑馬(やぶさめ)で知られ、境内に時計館宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられている。また、神前結婚式のほか、初宮詣(お宮参り)・七五三・車のおはらいや各種祈願なども有名。

近江神宮

天智天皇御製歌碑

近江神宮説明文

かるた記念植樹

高市黒人歌碑
写真撮影

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