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百人一首の風景 奈良県大峰山 山桜 春 金葉集
66前大僧正行尊 もろともに あわれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 

阪本桃水(純子)書
歌意
私がおまえをなつかしく思うように、おまえもこの私を懐かしいものと思ってくれ、山桜よ。こんな山奥ではお前以外心持のわかる人はいないのだ。
大峰山に修行のために分け入って、思いがけず常磐木の中に桜を見出して詠んだ歌である。



作者プロフィール
前大僧正行尊
1055年~1135年
三条天皇の皇子・敦明親王の孫で、源基平の子。12歳で出家し、大僧正になった。


歌碑

大峰山(おおみねさん)
大峰山は奈良県の南部にある山。現在では広義には大峰山脈を、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ)をさしていう。歴史的には、大峰山は大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々をさす。対して小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山という。
山上ヶ岳(さんじょうがたけ)標高1,719m。(奈良県吉野郡天川村に位置する。)
この一帯は古くから修験道の山として山伏の修行の場であった。道場としての大峯山は、単独の山を指す名前ではなく吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を意味している。その中でも山上ヶ岳(旧名:金峯山)の頂上付近には修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂があり、山全体を聖域として現在でも女人禁制が維持されている。山上ヶ岳へ通じる登山道には、宗教上の理由により女人禁制である旨を伝える大きな門があり(女人結界門)、1300年の伝統を守るための協力を依頼した看板が設置されている。しかし、1929年(昭和4年)には既に女性が登山していたとされる。
行尊と大峰山
行尊は、大峰山(奈良県)で長い間修行をした。山奥での修業は、断崖絶壁を上ったり、下りたり、滝に打たれたり、命がけであった。これが「修験道」の修行と言われた。
写真撮影

行尊(ぎょうそん、1055年~1135年3月21日)
行尊は、平安時代後期の天台宗の僧・歌人。平等院大僧正とも呼ばれる。

父は参議源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪から密教を学び、覚円から灌頂を受けた。1070年(延久2年)頃より大峰山・葛城山・熊野などで修行し、修験者として知られた。
1116年(永久4年)、2代熊野三山検校に補任。熊野と大峰を結ぶ峰入りの作法としての順峰(熊野本宮から大峰・吉野へ抜ける行程)選定をおこなったという。1107年(嘉承2年)5月法眼に叙せられる。また、同年12月鳥羽天皇即位に伴いその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現し、公家の崇敬も篤かった。のちに、園城寺の長吏に任じられ、1123年(保安4年)には天台座主となったが、延暦寺と園城寺との対立により6日で辞任している。1125年(天治2年)大僧正。その後、諸寺の別当を歴任する一方、衰退した園城寺を復興した。

百人一首と金葉和歌集 5首 歌碑建立(小倉百人一首文化財団)
金葉和歌集(きんようわかしゅう)
金葉集とは、平安時代後期に編纂された勅撰和歌集。全十巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第五番目の勅撰集に当たる。略称『金葉集』(きんようしゅう)。
白河院は第四番目の『後拾遺和歌集』編纂ののち、ふたたび勅撰和歌集の編纂を計画し、源俊頼一人に編纂の院宣を下した。俊頼は勅撰集編纂の事業に取掛かり、 天治元年(1124年)のころに『金葉和歌集』を完成させた。

百人一首5首
60小式部内侍 大江山 いくのの道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
66前大僧正行尊 もろともに あわれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 
71大納言経信 夕されば 門田の稲葉 おとづれて あしのまろやに 秋風ぞふく
72祐子内親王家紀伊 音に聞く たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
78源兼昌 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜ねざめぬ 須磨の関守

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