百人一首の風景                52    53
百人一首の風景 藤原道信朝臣 京都 明けぬれば 冬 後拾遺集
52藤原道信朝臣 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

阪本桃水(純子)書
歌意
夜が明けてしまうと、また必ず日が暮れるものだ。そうすればまたあなたに会えるとは承知しながらも、やはり恨めしく感じられるのは、あなたと別れて帰らなければならない明け方です。
この時代の男性貴族は、女性の家を日が暮れてから訪ねて、夜明けには帰るものでした。

貴族の恋愛
平安時代の貴族たちは、男性が女性のもとに通うのが、一般的な恋愛の形式。デートをするにも昼間に男女が会うことはなく、夜に女性の住んでいる家を訪ねるのが普通であった。そして朝になると男性は自分の家に戻り、女性に歌をおくるのが習慣で、これを「後朝(きぬぎぬ)の歌」という。
女性の方から、通うことが出来なかったので、男性が来なくなると、それは別れを意味した。

作者プロフィール
.藤原道信朝臣
972年~994年
藤原為光の三男、謙徳公の孫。藤原兼家の養子になるが、22歳で病死。

歌碑

歌碑小倉百人一首文化財団建立
藤原 道信(ふじわら の みちのぶ)
藤原 道信は、平安時代中期の公家・歌人。太政大臣・藤原為光の三男。中古三十六歌仙の一人。

非常に和歌に秀で、奥ゆかしい性格と評されたという。懸想し恋文を贈った婉子女王(為平親王の娘)が藤原実資に嫁してしまったのちに詠んだ和歌が『大鏡』に伝わる。また、藤原公任・実方・信方などと親しかった。『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。家集に『道信朝臣集』がある。
寛和2年(986年)伯父・兼家の養子として淑景舎にて元服。寛和3年(987年)右兵衛佐、永延2年(988年)左近衛少将、正暦2年(991年)左近衛中将兼美濃権守に任官。正暦5年(994年)正月には従四位下に叙されたが、同年7月11日当時流行していた天然痘により卒去。享年23才。
Wikipediaより引用

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