百人一首の風景               89    90
百人一首の風景 玉の緒 恋歌
89式子内親王 玉の緒よ 絶えなば絶えぬ ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする

阪本桃水(純子)書
歌意
私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。生きながらえていると、この恋をこらえて胸に秘めておく力が弱まり、人目に現れてしまうかもしれないから。

歌の背景
この歌は「忍ぶ恋」の題によってつくられた。秘密の恋を世間に知られてしまうくらいなら、いっそのこと死んでしまってもいいと歌っている。激しい感情と悲しみが込められている歌である。
斎院として加茂神社に仕えていた作者は、恋愛を禁じられていた。それでも恋をしてしまい、苦しんだのであろう。
式子内親王は権中納言定家に歌を学び、年の差(内親王が年上)を超えて二人は愛し合うようになり、その後出家して、尼になり一生を独身で通した。
作者プロフィール
式子内親王(しょくしないしんのう)
.1149年~1201年
後白河院の第三皇女。皇太后宮大夫俊成や権中納言定家から歌を学んだ。当時の代表的な女流歌人。

歌碑(二尊院門前長神の杜)

歌碑説明碑

歌碑(小倉百人一首文化財団建立)
式子内親王(しょくし/しきし(のりこ)ないしんのう
式子内親王(久安5年(1149年)~ 建仁元年1月25日(1201年3月1日)は、平安時代末期の皇女、賀茂斎院である。新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。高倉天皇は異母弟にあたる。萱斎院、大炊御門斎院とも呼ばれた。法号承如法

経歴
平治元年(1159年)10月25日、内親王宣下を受け斎院に卜定。以後およそ10年間、嘉応元年(1169年)7月26日に病により退下するまで賀茂神社に奉仕した。
退下後は母の実家高倉三条第、その後父・後白河院の法住寺殿内(萱御所)を経て、遅くとも元暦2年(1185年)正月までに、叔母・八条院暲子内親王のもとに身を寄せた。元暦2年(1185年)7月から8月にかけて、元暦大地震とその余震で都の混乱が続く中も、八条院におり、准三宮宣下を受けている。八条院での生活は、少なくとも文治6年(1190年)正月までは続いた。
後に、八条院とその猶子の姫宮(以仁王王女、式子内親王の姪)を呪詛したとの疑いをかけられ、八条院からの退去を余儀なくされた。白河押小路殿に移り、父後白河院の同意を得られないまま出家した。
建久3年(1192年)、後白河院崩御により大炊御門殿ほかを遺領として譲られたが、大炊御門殿は九条兼実に事実上横領され、建久七年の政変による兼実失脚までは居住することができなかった。建久8年(1197年)には蔵人大夫橘兼仲夫婦の託宣事件に連座し洛外追放が検討されたが、実際に処分は行われなかった。
正治元年(1199年)5月頃から身体の不調が見られ、年末にかけてやや重くなる。正治2年(1200年)後鳥羽院の求めに応じて百首歌を詠み、定家に見せている。その後ほどなく病状が悪化、東宮守成親王(後の順徳天皇)を猶子とする案あるも病のため実現せず、建仁元年(1201年)1月25日薨去。享年53。
藤原定家との関係
藤原俊成の子定家は治承5年(1181年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われているが、詳細ははっきりしない。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。
Wikipediaより引用

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