道後温泉と聖徳太子
法興6年(596年)伊予の温泉を訪れた聖徳太子は、霊妙な温泉に深い感動を覚え、碑を建てた。その碑の復元された石碑が椿の湯の前にある。
愛媛県松山市道後湯之町19-22 椿の湯前

松山駅から路面電車で、「道後温泉駅」下車徒歩5分

聖徳太子道後温泉碑
伊予湯岡碑文とは
碑の現物は亡失し、『伊予風土記』逸文には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧慈と大和の豪族葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたされている。


その原文は

「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首  惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也」(「法隆寺ハンドブック」より)

梅原猛氏は福永光司氏の読み下し文に従って現代語訳されている。
「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。 思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事(まつりごと)は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。 かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」(『聖徳太子』梅原猛・著。集英社)


伊予湯岡碑文の考察より引用http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/iyoyuokahibun.html


聖徳太子道後温泉碑

椿の湯と道後温泉本館
「椿湯」の50M程の近くに「坊っちゃん」で有名な道後温泉本館がある。

白鷺伝説

昔、足を痛めた白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、傷は癒えて、飛び立って行くのを見て、村人が手を浸すと温かく、温泉であり、効能を確認したという伝説がある。これが道後温泉の発見とされる。
道後温泉では、その白鷺が舞い降りた跡が残ったものとのいわれのある石(鷺石)があり、市内電車の駅前の放生園(ほうじょうえん)という小公園の一角に据えられている。
白鷺は道後温泉のシンボルの一つともなっており、道後温泉本館の周囲の柵にも白鷺をモチーフとした意匠がみられる。また、鷺谷という地名が残っている。
椿の湯 道後温泉本館 坊ちゃん列車
聖徳太子ゆかりの地 道後温泉