近世王寺の遺跡・名所
魚梁船藤井問屋(やなぶねとふじいどんや)
 大和川には、主に大和の農民が田畑に使う肥料を大坂から運んでくる川船が就航していた。大坂から剣先船(けんさきぶね)で運ばれてきた荷物は、亀の瀬の滝のところで魚梁舟に積み替えられた。
 魚梁船(やなぶね)は立野村(現三郷町)の安村喜右衛門が支配し、筒井や今里、松本、河合などまで荷物を運んでいた。これに対して、藤井問屋は剣先舟で運ばれてきた荷物を亀の瀬で受け取り、そこから大和の各地まで陸路を牛馬で運ぶ業務を担っていた。
 藤井問屋は藤井村の庄兵衛が慶安(1648〜1652年)のころに始めたと考えられ、剣先舟から荷物を小揚げ(こあげ)する仲仕(なかし)や牛馬で荷物を運ぶ駄賃取りが働いていた。駄賃取りは主に王寺村の人々が農業の合間に勤めていた。
送迎太神宮(ひるめだいじんぐう)
 送迎太神宮は、文政13年(1830年)のおかげ参りのときに、西山(明神山)にお札が降ったのを契機に創建された。おかげ参りとは、人々が伊勢神宮に集団で参詣することをいう。このとき送迎太神宮にもたくさんの参詣があった。「和州送迎太神宮之図」には、本宮や鳥居・灯篭。参詣の様子が描かれている。
 畠田村には茶屋や万金丹屋などがつくられて大いににぎわっていた。現在、火幡神社にある石灯籠と白山姫神社にある石鳥居は、もと送迎太神宮に奉納されていたもので、白山姫神社の石段には「送迎太神宮道」刻まれた石が転用されている。
場所:畠田地内
白山姫神社(しろやまひめじんじゃ)
 白山比当ス、伊奘諾命、伊奘冉命を併せて祀る神社。
 神社入り口の石鳥居はもと明神山の送迎太神宮にあったものと見られ、同じく神社入り口の石段には送迎太神宮の道標が転用されている。
場所:畠田8丁目
 
近世の王寺(安土・桃山時代〜江戸時代)
 近世の王寺町域には、王寺村、門前村、藤井村、畠田村の4か村があった。王寺村は久度・舟戸・張井・大工(井戸)・大峯・大田口・白瓜・中村・池原の9組、畠田村は山上・小黒・送迎(ひるめ)・尼寺の4垣内(かいと)で構成。門前村は慶長7年(1602)に徳川家康から達磨寺に30石の領地が寄進されて王寺村から独立した。各村の領主は、天保期(1830〜1844年)でいえば、王寺村は幕府、門前村は達磨寺、藤井村と畠田村は郡山藩であった。米を作って年貢を納める農業中心の生活以外に、大和川の舟運に関わる問屋や酒屋・油屋などの商業を営む商工業も盛んであった。
魚梁船(やなぶね)と藤井問屋 1648年(慶安)のころ 藤井 大和川亀の瀬
送迎太神宮(ひるめだいじんぐう) 1830年(文政13年) 明神山山頂付近 送迎山城跡
白山姫神社 1830年ごろ 畠田8丁目 五穀豊穣の神様