久度神社(くどじんじゃ)
 この神社に祀られている久度神は「久度」という言葉が竈(かまど)を意味する「クド」に通じるところから竈神ともいわれ、竈や台所を守るといわれている。
 延喜式の神名帳に記されており、古くは延暦2年783年に当社が従5位下に叙されて官社になったとする記録がある。
場所:久度4丁目
品善寺(ほんぜんじ)
 本尊阿弥陀如来坐像は平安時代の作であり、もとは法隆寺に安置されていたものと言われている。また奈良県の文化財に指定されている木造の薬師如来坐像の他、木造の11面観音立像、地蔵菩薩立像、仏身一尺の涅槃像が安置されている。
場所:元町2丁目
八幡神社(はちまんじんじゃ)
 誉田別命を祀る神社。古くから産土神を祀る神社として信仰されてきた。
 昭和8年には、前年に発生した亀の瀬地すべりの復旧工事で、境内の一部が迂回する線路用地にかかったため、神社の移転工事が行われた。
場所:藤井3丁目
火幡神社(ほばたじんじゃ)
 天児屋根命、神宮皇后、誉田別命、玉依姫命、天照大神が祀られる神社。延喜式の神名帳に記されており、古くは大同元年806年に所領が与えられたとする記録がある。
 鳥居前の石灯篭1対は、明神山の送迎太神宮から移設したものと考えられる。
場所:畠田5丁目
永福寺(えいふくじ)
 行基によって開基されたといわれ、本尊釈迦如来坐像は寄木造、地蔵菩薩立像は一木造で、ともに平安後期の作品。境内の層塔も凝灰岩を使い、風食による破損が大きいものの平安後期以前の作品と見られる。
場所:畠田7丁目
親殿神社(おやどのじんじゃ)
 天児屋根命が祀られる神社で、武士団・片岡氏の祖先が文明年間に祀ったのがはじまりであるという。記録によれば、片岡道春という人が春日若宮から祭神を勧請して、親殿と名づけた。
 境内には、安政2年1855年に雨乞いの祈願が成就したことで奉納された石灯籠がある。
場所:本町2丁目
武士団・片岡氏(ぶしだん・かたおかし)・片岡城址
 武士団片岡氏は香芝市地域を拠点に、片岡氏などの荘園経営にかかわりながら勢力の伸張をはかっていた。明応7年1498年には畠山尚順が率いる河内勢によって攻め落とされて片岡氏当主の利持が戦死し、その系統はいったん途絶えた。
 しかし、周辺に生き延びていた一族である王寺町地域を拠点としていた「弥五郎道春」が惣領家の当主となって片岡家は存続し、片岡城を築いた。
 この城は永禄12年1569年、当時信貴山に城を構えて大和を侵攻していた松永久秀に攻められて落城した。
 この後、片岡氏は豊臣氏に仕えるようになり、江戸時代になると王寺村の池の原に居住するようになった。

 片岡氏は16世紀初頭に片岡城を築き、これを本城としていた。「大和国葛下郡片岡系図」には、片岡城を築いたのは片岡国春であると記されている。片岡城が永禄12年(1569)に松永久秀によって攻め落とされた後、城は修復されて松永の支城になった。

 葛下川をのぞむ丘陵の先端近くを利用し、急崖と丘麓の湿田による要害の地に構えられた片岡城は、4つの曲輪と空堀からなり、曲輪1が本丸に相当し、その南面からのルートが大手にあたる。現状から、曲輪1・2は片岡氏時代に、曲輪3・4は松永氏時代に築かれたと考えられる。

片岡城址
 
中世王寺の名所・旧跡
中世の王寺(平安時代〜戦国時代)
 王寺地域では、中世になると武士団の片岡氏が活躍。片岡氏は、王寺町や河合町、上牧町、香芝市などからなる「片岡」と呼ばれる地域に勢力をもち、当時大和一国を支配していた興福寺に従属する立場をとりつつ、次第にその勢力を拡大しつつあった。戦国の世のはじまりであった。
 永禄12年(1569)、信貴山に城を構えて大和を侵攻していた松永久秀に攻められて片岡氏の居城「片岡城」(上牧町)は落城した。
 
久度神社 延暦2年783年 久度4丁目 竈(かまど)の神様
品善寺 平安時代 元町2丁目 木造薬師如来坐像奈良県指定文化財
八幡神社 平安時代 藤井3丁目 産土神を祀る神社
火幡神社 大同元年806年 畠田5丁目 産業振興、五穀豊穣の神様、
永福寺 平安後期 畠田7丁目 行基が開基
親殿神社 文明年間 畠田5丁目 片岡武士団の戦勝祈願・軍議の場所
武士団片岡氏 1498年(明応7年) 王寺町 片岡城を築いた
片岡城址 16世紀初頭 上牧町 4つの曲輪と空堀からなる中世の城跡