舟戸・西岡遺跡(ふなと・にしのおかいせき) | |
舟戸・西岡遺跡は、弥生時代後期の遺跡です。大和川を見下ろす丘陵上に位置し、見張り台や烽火(のろし)による連絡の役目を担う高地性集落であった。 場所:王寺町舟戸 |
|
孝霊天皇片丘馬坂陵 (こうれいてんのうかたおかうまさかのみささぎ) | |
孝霊天皇は、「古事記」「日本書紀」に記される第7代天皇(紀元前290年2月19日〜紀元前215年3月27日)。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)大倭根子日子賦斗運命(「古事記」) 父は孝安天皇、母は天足彦国押人命(あまてらしひこくにおしひとのみこと)の女・押媛(おしひめ、「古事記」に忍鹿比売)。 皇后は細媛命(くわしひめのみこと、ほそひめのみこと。磯城県主大目の女) 第一皇子は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇) 皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと 吉備津彦命)は桃太郎伝説のモデルと言われている。 陵墓:王寺町本町三丁目 |
|
達磨寺古墳群(だるまじこふんぐん) | |
「日本書紀」の「飢人伝説」と結びついた古墳は、達磨寺本堂の下(3号墳)、本堂の北東(1号墳・2号墳)を含め、小規模な3基の古墳がある。 これらは6世紀末ごろに造られた古墳で、内部に横穴式石室があり、達磨寺古墳群と呼ばれている。 本堂の東北隅にある古墳(1号墳)は復元すると径15m、高さ4m以上の円墳で、東に開口する全長約6mの両袖の横穴式石室をもっており、石室の見学が可能である。 |
|
岩才池北古墳(いわんだいけきたこふん) | |
岩才池北古墳は、畠田古墳と同様、6世紀末から7世紀初頭に築造されたと考えられる。 北には大和川、西には葛下川が流れる馬見丘陵の北端に位置している。 南に開口する横穴式石室は小さく、玄室と羨道が区別しにくいものになっている。 |
|
畠田古墳(はたけだこふん) | |
畠田古墳は7世紀初頭に築城されたと考えられ、明神山塊から東南になだらかに派生する尾根の南斜面に立地している。この尾根の先端は香芝市域に入り、飛鳥時代の尼寺廃寺が所在する。 畠田古墳は、直径15m、高さ4m以上の円墳で南に開口する全長約9mの横穴式石室をもっている。 推古朝前後にこの地域を治めた、あるいはこの地域の開発に関わった人物の古墳と考えられている。 場所:明神4丁目 |
|
乳たれ地蔵(ままたれじぞう) | |
乳かけ地蔵とも呼ばれ、母乳の出が良くなる地蔵として信仰を集めている。 その昔、、推古天皇が、乳母の乳が少なかったのを憂いて、この地蔵に御祈願されると、七日と経たないうちに乳が垂れるほどたくさん出るようになったと伝えられている。 |
|
飢人伝説・達磨寺(きじんでんせつ・だるまじ) | |
推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという飢人伝説(きじんでんせつ)に基づいて開かれた達磨寺は、達磨大師の墓と伝えられる古墳の上に本堂が築かれている。 「日本書紀」によると、聖徳太子(厩戸皇子)が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に寒さと飢えをしのぐための食物と自分の衣類とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、屍骸は消えており、衣服だけがたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子自らが刻んだ達磨像を祀ったのが、達磨寺の始まりである。 「万葉集」には上宮聖徳皇子作として、 家にあらば 妹(いも)が手纏(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あわれ 後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれ、飢人の墓の地とされたこの地に達磨寺が建立された。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以降である。 場所:王寺町本町2丁目 |
|
西安寺(さいあんじ)・舟戸神社(ふなとじんじゃ) | |
西安寺(さいあんじ)は聖徳太子建立の47ヶ寺に含まれている寺院遺跡で、「久度寺(くどでら)」とも呼ばれ、現在の舟戸神社を中心とする場所がその跡地と考えられている。 西安寺は、7世紀中ごろに百済王の末裔を名乗る渡来系氏族である大原史氏によって創建されたと考えられている。 舟戸神社に祀られている久那度神は、道祖神などと同様、道路や旅人を守る神様で、大和川や當麻街道を行き交う人々が集うこの地を守るために勧請され信仰されてきたと考えられる。 場所:王寺町舟戸2丁目 |
|
片岡王寺(かたおかおうじ)・放光寺(ほうこうじ) | |
この片岡王寺が、現王寺町の町名の起源と考えられている。その遺跡は現在の王寺小学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていた。 それは南向きの四天王寺式伽藍配置で、7世紀前半に敏達天皇の系統の王族が創建したと言われている。 片岡王寺の伽藍は永承元年(1046年)の雷火による焼失を契機に衰退し、現在では放光寺として存続している。 放光寺は第30代敏達天皇の皇女片岡姫による創建といわれ、聖徳太子が建立した四十六院の一つにも数えられている。 しかし、永承年間の雷火と元亀年間の兵火でほとんどが焼失。その後、延宝・元禄の頃に再建された。 2004年には、国道168号線改良事業に伴って、王寺小学校グランド部分で発掘調査を行なったところ、片岡王寺に関わる奈良時代の掘っ立て柱塀と石積み溝が検出され、平城宮のものと同じ文様をもつ鬼瓦が出土した。 場所:王寺町本町2丁目 |
|
片岡司(かたおかのつかさ) | |
王寺町付近にはかって片岡司があった。片岡司とは長屋王の重要な経済基盤であった御田(みた)や御園(みその)を管理する機構のこと。平城京長屋王邸跡からは、片岡司から長屋王邸に運ばれた進上物などを記した木簡が出土。その木簡には、女性の手によって菁(かぶ)や蓮根、桃などが長屋王邸に進上されたことが記されている。片岡司は敏達天皇およびその後裔の王族の家産であり、天武天皇、高市皇子から長屋王へと伝領されたと考えられている。 |
|
片岡神社(かたおかじんじゃ) | |
片岡神社は八幡大神、住吉大神、豊受大神、清滝大神、天照大神が祀られ、放光寺の鎮守社であるとされている。 延喜式の神名帳には片岡坐神社(かたおかにいますじんじゃ)とあり、古人は雨の神として尊信していたと言われている。なお、旧社地は現在地よりも北西であったとされる。 記録によると正暦5年(994年)疫病や天変地異が続いたため、中臣氏が救済を祈願して奉納したと言われている。 場所:本町2丁目 |
|
芦田池(あしだいけ) | |
この芦田池は、「日本書紀」によると、聖徳太子の進言によって、推古天皇15年(607年)の冬に大和の国に新しく造られた4つのため池(肩岡池、高市池、藤原池、菅原池)の一つ、肩岡池のことであり、日本最古の官立の「ため池」である。 ・本町の辺りは昔から葦田と呼ばれ、葦が茂っていたことから放光寺古今縁起には葦田池と書かれていた。 ・あしたの原とは、葛城山から馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯をさしたと思われる。 ・この地は歌の名所として、数々の名歌が残されている。 あすからは 若菜つまむと 片岡の あしたの原は けふぞやくめる 柿本人麻呂 場所:王寺町本町 |
|
尼寺廃寺跡(にんじはいじあと) | |
僧寺と尼寺の関係が指摘される北廃寺跡と南廃寺跡からなる ・7世紀中頃に創建された寺院跡 ・平成8年の調査で、塔の基壇下から日本一大きいと言われる心礎が出土。 ・基壇上には心礎をはじめ計13個が残存。 |